正言は反のごとし

情報が過多な今の時代、何が正しくて何が間違っているのかを判断するのがとても困難になっています。

 

一般的な常識とされているような事も、実は煽動された末に植えつけられてしまった固定観念だったり、周りがそうだからきっとそうなんだという思いこみだったりする事があります。

 

 

本当に必要な事や正しい事は、もしかすると一般的に人が常識だと考えている事とは反対の事かも知れません。

 

つまり「常識」として根付いている事も、よくよく考えてみると意外と違うかもしれない

 

否定されていたことも、違う角度でアプローチをするとそうでは無い事に気付くかもしれない

 

そんな真実や絶対的な事に触れるためには、いつもココロとアタマを柔らかくし、決め付けで物事を判断しないようにすることです。

蟷螂の斧


かまきりが前足を振りかざして、大きな車の前に立ち行く手を阻もうとする様の事であり、力のない者が自分の力を過信して、はるかに力の大きな者に向かっていく事の例えである。

 

かまきりは気が強く逃げる事を知らない生き物で、その前足はまるで斧のような破壊力を持っている。

 

しかし、それは自分よりも小さな生き物を相手にした時の話であり、もっと大きく力の強い者には歯が立たない。

 

にもかかわらず、自分の身の丈や力をわきまえないでいくら奮闘したとしても、かなう訳がないのです。

 

はかない抵抗に過ぎないのです。

 

少しばかりの成功や出世で、自分の才智や能力を万能のモノと思い違いをし、おごり自惚れ、権力を振りかざしたとしても、実はたかだか知れているのです。

 

素晴らしい人や物・大きな存在には、とても及ばない。

 

そういう事に気づくことで、自分自身の本当の価値や存在が分かると、その結果、より大きな力を得る事が出来るのです。

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天下は神器なり、為すべからず

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世界は、ヒトの思い通りになど、なりはしない。


大自然の前では、ヒトの「善悪」・「損得」・「是非」は何の役にも立たず、ヒトが世界をどうこうしたり、手に入れよう、動かそうなどと考えてもどうする事も出来ないのである。

 

自分達の利益や、偏った正義をいくら唱えようとも、それはあたかも自分の信じるものや世界の平和を合言葉にして、戦争を繰り返しているのと同じである。

 

世界はヒトの持ち物ではない。

 

信念や主義主張に突き動かされるヒトが多ければ多いほど、結果として世界は汚され壊されてしまう。

 

ヒトは驕りや執着を捨て、自然をあるがままに受け入れるだけでよいのです。

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大を用うるに、拙なり


ある男が、大きな瓢箪の種を貰い、それを育てたところ立派に成長しもっと大きな瓢箪が出来ました。

 

しかし、あまりも大きすぎる事から、飲み物を入れて飲もうとすると重すぎて持ち上げられず、半分に割ってひしゃくにしようとすると平らすぎて水がこぼれてしまいます。

 

瓢箪としては素晴らしいのですが、男はこの瓢箪は何の役にも立たないものと思い、壊してしまいました。

 

しかしながら、少しだけ視点を変えて考えると、例えばその瓢箪で舟を作り子供を乗せる事にすれば、壊す事は無かったのです。

 

瓢箪を『水などの飲み物を入れるもの』『水をすくうもの』という固定観念のみで考えてしまうと、それ以外の使い道が思いつきません。

 

物の価値は1つではなく、色々な面や角度から見る事で、思いもよらない名案が浮かんだり、より効果的な使い方が出来るのです。

 

この世の常識にとらわれ、『これはこうあるべき』『これに決まっている』というような凝り固まった思考を開放し、様々なアイデアを探る努力をしましょう。

 

そうすると、全く役に立たないと思っていたものが、実は宝物であった、という事があるかもしれません。


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白駒の隙を過ぐるが如し

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人生は、白馬が走り過ぎるのを壁の隙間から、チラッと目にするようなもので、月日がたちまちのうちに経ってしまいます。


人の人生は、せいぜい百年、雄大な大自然と比べると、一瞬のようなはかないものかもしれません。


それならば、「そんな短い人生をどう過ごすか」、真剣に考えるべきである。


ただダラダラと過ごし無駄な時を重ねるのではなく、生きている事に感動や喜びを感じ、有意義に過ごしましょう。


自分の人生のドラマの、監督・脚本・主演などは、すべて自分自身です。


誰かが変わりに作り上げてくれるものではありませんので、何の楽しみも刺激も無い、つまらない作品にだけはしないように、努力を積み重ねましょう。


「わが人生に悔いなし」と、笑って過ごせる充実した毎日にしたいものです。

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知や涯(かぎり)なし

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人の一生には限りがあるのですが、知や欲のようなものには限りがない。


あれが欲しい・これが知りたい・ああなりたい・こうしてほしい・・・・


このような生き方は疲れるだけで、何の意味もありません。


目標を掲げ、そこに向かって突き進むことは、時には必要な事なのですが、無限の欲望などを果ても無く求め続けるほど、無駄な事はありません。


限りあるものの中で、限りないものを追いかけても、いつか破綻するのです。

聖を絶ち智を棄つれば民利百倍す

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 生きる喜びは、何も主役やエリートコースでのみ、感じられるものではありません。


脇役や裏方という役割にも、やりがいや生きがいがあり、その喜びを味わう事が出来ます。


世間の評判や、他人からの評価を少しでも高くするために、名誉や地位に異常な執着を抱き、心を壊すほど必死にしがみついたところで、穏やかで安らかな生きる喜びは得られません。


全員が、エースストライカー、四番バッター、社長、スターでは成り立ちません。


偉くなろう、凄いと思われよう、そんな事に取りつかれなければ、自然に「徳」や「得」が巡ってきます。


競争社会を猛に駆け抜けるうちに、大切な事を失わないようにしましょう。

蛇の鱗、蝉の翼


蛇は鱗を動かして移動します。

その様子から、蛇が体を進められるのは、鱗のお蔭であろうか、それとも蛇自身であろうか。


蝉は羽根を動かして飛ぶが、蝉を飛ばしているのは、羽根であろうか、それとも蝉そのものであろうか。


こんな時に、人はすぐに言い争いになります。


蛇だ 蝉だ いや 鱗に決まっている 羽根以外にはない


自分の意見があたかも正論であるかのごとく、主張し始め、対立を繰り返すのです。


あれはあれ これはこれと、決める必要のないようなことに、つまらない屁理屈を繰り返し、対立と不幸を生みだし消耗してしまいます。


そんなことは、本当はどうでも良い事なのです。

樊中に畜わるるを求めず


「はんちゅうに やしなわるるにもとめず」


自然の中で生きているキジは、少し歩いては一つまみの餌をついばみ、また少し歩いては僅かな水を飲む。


そんな乏しい生活をしていても、かごの中(樊中)で飼われたいとは思わない。


たとえ食べることに窮することになろうとも、心が窮屈で自由の無い生活は望まない。


野山や森をのびのびと歩き、誰に決められるわけでもなく、楽しみながら一生を終える。


餌は豊富に与えられるものの、その他の自由を奪われ「かごの鳥」として不自由な生活を送るより、とにかく自由で楽しい生活が一番望ましいのです。

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得難き貨は人の行ないを妨げしむ


自分の実力以上の財貨を手に入れようとしたり、使うようになると、平常心を失い人生を誤ってしまいます。


また、財貨を増やす事ばかりに執着してしまうと、『心や魂』が不安定になりいつしかそれらが財貨に取り込まれ、周りが見えなくなり結果的に大損失を被ってしまうのです。


大切なことは、財貨や利益に目をくらませることなく、自分の内面や生命力や健康の尊さに目を向け、それらを充実させることに全力を費やしましょう。


それが本当の意味での幸せなのです。

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之を聴くに心をもってせよ


言葉には心があります。


人は、話を聞くときに「耳で聞く」のですが、この聞き方では事の良し悪しや是非が先に立ち、気に入らない・考えが違うという事があると、すぐに言い争いや自分の考えを押し付けたりしてしまいます。


正しい聴き方は、「心で聴く」という事です。


相手が大切であれば、「大切な心」で聴き、愛しているのであれば「愛の心」で、広い大きな心を持って受け入れることが出来ます。


心で聴くことが出来るようになると、ちょっとしたことでイライラしたり、不平不満に満ちてかんしゃくを起こすような事も無くなります。


やさしい心を持って、聴き、話し、お互いの心を温めあいましょう。

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大なるものは宜しく下ることを為すべし

少しばかり能力がある、力が強い、財力があるからと、威張り散らして他人を蹴落とし強大になろう・一番になろうとするのは、いかがなものでしょう。

 

強さを見せつけ登って行くうちに、実は道は細く険しくなり、心が窮屈になっていくのです。

 

逆に川の流れのように、下へ下へと下って行けば、川の幅はどんどん広がり、いずれ大海原にたどり着きます。

 

心穏やかにゆったりとした人生を送ることが出来るのです。


下ることは弱くなることではありません。

 

謙虚な心・素直で優しい心・他人を受け入れる心

 

そんな人こそが本当の意味での『強い人』であり、弱い立場の人を守るような生き方が自然にこなせてこそ、『道の人』と呼べるのでしょう。

心はまことに死灰のごとくならしむべし

ちょっとした、取るに足らない事でイライラしたり、落ち込んだり・・

 

常に心が不安定な状態では、物事の選択を誤ったり、進むべき道が見えなくなってしまいます。

 

『燃えていた灰に水をかけると、もう二度と炎を発することは無い』

 

心の中に渦巻く乱れに対し、水をかけて完全に静けさを取り戻すような様を表しています。

 

嬉しい事や良い事が起これば、大いに喜べば良いのです。

 

しかし、褒められたり羨ましがられたりする事を求めすぎるあまり、知らず知らずのうちに心に無理を強いて、思い通りの結果が得られないと、マグマが爆発する、というような悪い習慣が身についてしまいます。

 

また逆に、認められない、求められない自分に落ち込み、前が見えなくなり闇に取り込まれてしまう事もあります。

 

心は常に柔らかく静かで穏やかな状態が良いのです。

 

心がグラグラと揺れてきそうなときは、水をかけてみましょう。

愛して、身をもって天下となす

自分の事を大切に想っていますか?


かけがいのない自分を、真剣に深く愛していますか?


人間としてこの世に産まれ、生かされている喜びをしっかりと噛みしめましょう。


もしも、カラスに生まれていれば、ゴミ袋に群がっているような人生を、犬であれば、鎖につながれ餌を与えられ、小さな犬小屋で一日の大半を過ごすような人生を送らなければなりません。


人間に生まれたことは、それほどまでに尊い事で、これ以上無い喜びのはずなのに、大自然に生かされていることも忘れ、感謝することを怠り、不平不満で心を満たしたり、ひたすら自分を偽りの仮面で覆ったり、虚栄で自分を大きく見せようとしたり・・・・


そんなことに心を奪われるより、自分を深く見つめ、もっと強く愛し、人として生まれたことの幸せを感じましょう。


それが、心穏やかに無理なく生きていくための道なのです。



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常(じょう)を知らざれば妄(みだり)に作(な)して凶なり

大自然の大きな力、いつも、いつまでも変わらない不変の力が『常の力』であり、呼吸や健康、命のあり方、人としての根本が『常』そのものでもあります。


常は自然のままの大きな心で過ごしていれば、何の問題もないのですが・・・・


あれすれば得をする

これをすれば損をする

やつは運が良かっただけだ

その考えは間違っている

自分がいつも正しい

うまくいかないのは誰かのせいだ


そんな事ばかりに心が偏り、他人を批判することで自分を正当化したり、違う意見に耳を貸そうとしなかったり


そんな日々を過ごす事が、結果的に『凶』を招いてしまう事に気付かなくてはならないのです。

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不材を以てその天年を終える

あるとき、山の中を歩いていると、大きく歪んでいるものの枝振りが素晴らしく見事な大樹がありました。


そこへ一人のきこりが来たのですが、その木を切ろうとはしません。


なぜ切らないのかと尋ねてみると、歪んでいるし、大きすぎるから切っても使い物にならないんだと答えました。


つまり、この木はほかの木と違って歪んでいたために伐採されずに天寿を全うするまで生きながらえることが出来るのである。


と、このように解釈をしてしまうと、木材として使える木よりも、使い物にならない木のほうが良い、ということになってしまいますが、そうではありません。


正しい解釈は、2つのものを比べ、あれがいいとかここが良くないとか判断して優劣を決めることの無意味さを知ることです。


真っ直ぐであろうと歪みがあろうとそのいずれにも、それぞれに良さがあり、そういう視点で物事を見て考えるようにしましょう、役に立たなくても立たないなりの良さが必ずあるものですし、役に立つものは立つなりの良さがあるのです。

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喜怒四時に通ず

ストレス感情

自然に過ごす事はとても大切です。


感情を押し殺したり、理性を働かせ過ぎたりすると、抑え込まれたモノたちが、いずれバケツから水があふれるような大騒動を巻き起こします。


喜ぶべき時には喜び、怒るべき時には怒る。


笑いたい時には思いっきり笑い、泣きたい時には思いっきり泣く。


それが自然なのです。


春になれば暖かくなり、夏は暑く、秋は涼しく、冬は寒くなります。


人は自然の中にあり、人の中に自然があります。


その大いなる力を存分に活力とするためにも、無理に自分を押さえつけるような生き方は、出来る限り避けたいものです。

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美なるを知らず

ストレス

自分の長所を最大限に生かすのは、良い事です。

 

しかし、いくら優秀であったり、美しくあったりしたとしてもそれを鼻にかけ、驕り高ぶるような態度はよろしくありません。

 

長所は見せびらかさなくとも伝わります。

 

それを敢えて誇示してしまうと、疎まれたり妬まれたりする事につながります。

 

逆に短所を短所だと理解し、努力を積み重ねていくうちに、いつかその短所が長所に変わる事すらあるのです。

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未だ天籟(てんらい)を聞かず

ストレスしがらみ

自然の中には風の音・波の音・木々の音・虫や鳥の声など、様々な『大自然からの声』が溢れています。

 

これらは『無音の音』と呼ばれていて、モノの善悪やしがらみや理屈などとは無縁の、穏やかで何からも束縛されない安らぎに満ち溢れた音だと考えられています。

 

多くの人は日々『あ~でもない、こ~でもない』『これは良くてあれは悪い』『自分が正しく、他人が間違っている』『周りと同じでないと落ち着けない』など、神経を擦り減らしながらあらゆる出来事と対峙し、大自然からの声に耳を傾けるコトすら忘れ、走り続けているのです。

 

天籟とは、そのような状態とは正反対の、自由で偏りの無い自然な心で過ごすための音であり声なのでしょう。

 

理屈や観念に囚われなくなれば、迷いや不安が無くなります。

 

そうすると心は自然と正しく動きだし楽に生きていけるという事なのです。


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内 直くして、外 曲がる

内剛外柔笑顔

内剛外柔という生き方こそ、素晴らしい人間の歩むべき道であるという考え方があります。

 

心は、自分の信念に一切の妥協を許さず、ぶれずに地位や名声や財産にこだわらず、ただひたすらに雄大な大自然と調和するかのごとく澄んだ状態で過ごしつつ、一歩外に出ると、他人を思いやり、穏やかに物静かに対応をする。

 

決して、自分の考えや理論を押し付けたり、是か非かだけを判断基準に語り、怒ったり、怒鳴ったりせず、相手の立場や気持ちを察し、常に柔らかく穏やかな態度で過ごしましょう。

 

例え、嫌味を言われたり、けなされたりしても、純真無垢な子供のような笑顔でニッコリとほほ笑むことが出来るように、日頃から鍛錬を怠らないようにしましょう。

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多ければ即ち惑う

ストレス強欲

他の誰よりも、少しでも多く.....

 

評価・お金・知識・名声・情報.....

 

本当に自分が必要かどうかも分からずに、とにかく多くを求めるあまり、結局は迷い使いこなせず、さらに頑張って、求め続ける事が目的になってしまったり、迷ってしまったりというような、本末転倒な状況になってはいませんか?

 

あれやこれやと身にまとうだけでは、ただのお荷物でしかありません。

 

得たモノをいかに効率よく使いこなし、最小の努力で最大の効果を生み出せるか、という思考に切り替えましょう。

 

そうすれば、周りから注目されたいだけのモノや、身の丈に合わないモノ、使いこなせないモノはどんどん削ぎ落とされ、スリムでコンパクトで動きやすくなります。

 

なんでもかんでもとりあえず手に入れさえすれば....というものでもないのですよ。

朝三暮四

騙される

『朝3つ、夕方4つ』と『朝4つ、夕方3つ』

 

結果や内容は変わらないにもかかわらず、目先の利益に目がくらんだり、言葉巧みに騙されたりする事のたとえです。

 

表面的な事柄ばかりに意識が向いてしまい、そのものの本質や価値を正確に判断できないがために、争いやいさかいが起きてしまいます。

 

逆にこのような心理を利用して、他人を騙して儲けようとしたり、出世しようとしたりするような輩も、一部には確実に存在します。

 

どちらか一方を『善』、そして他方を『悪』として対比させ、その善を拠りどころとするのも良いのですが、両方が同じモノであれば、『悪』もまた『善』であり、『善』こそが『悪』だとも言えます。

 

物事の本質はそうそう変わるものではなく、それを判断する側の一方的な価値観が、愚かな行為を生んでしまうのです。

知りて知らずとするは、上

ストレスアレルギー

何事にもおいても見識はあるが、あえて知らないような態度で接する事こそが最上であるとされています。

 

なぜ、知らない態度をとるのか

 

それは自分が把握している事は、この世のすべての事と比較すると、ほんの一部にしか過ぎなくたかが知れている、つまり知っている事にそれほどの価値はないという事に気付けば、謙虚な心で過ごすことが出来るのです。

 

逆に、少しばかり知っているからと、声高らかに、得意げに語り出したり、知らないのに借り物の知識を振りかざしあたかもその道の専門家のような体裁を整え、評価を得ようとするような人がいかに多いことか......。

功なり事遂げて 百姓、皆我自然と思えり

鼻つまみ者

方法・手段を問わず、成功を収め望むものが何でも手に入るような事になったとしても、それはすべて『自然』の大きな力によるものだという事を忘れてはいけない。

 

少しばかり成功した、自分の願望が達成した、となると人はすぐに自分の力だけで成し遂げられたと勘違いをしてしまい、力を誇示したがるものです。

 

媚びへつらわれ、持ち上げられ、褒めちぎられるとますますその気になってしまうのですが、威張れば嫌われる、という事を知らないのです。

 

『私の努力などたかだか知れています。今の成功はすべて自然の力によるもの・自然のおかげなのです』

 

このように言えるようになっていただきたいものです。

敢えて寸を進めずして尺を退く

グローバルストレス

『一寸前に進むよりも、むしろ一尺後ろへ退きなさい』

 

現代社会は生き馬に目を抜くようなスピードと価値観の多様化が求められる時代で、企業なども常にグローバル化を図りどんどん拡大を続けていくようなチキンレース状態ではないでしょうか。

 

市場が飽和すれば、また別の場所に活路を求める繰り返し....

 

誰もが強者を目指し、弱い者を踏み倒しその肉を喰らい『大きく・強くなろう』としているように感じます。

 

そんな獣のような生き方とは違う『人間らしい生き方』は無いのでしょうか。

 

『1m進む事を考えず、10cm退く事を考えましょう』

 

自分の利益・出世・成功ばかりに心を奪われることなく、他人を思いやる心・徳を分け合うような、そんな生き方があってもいいのでは? と、考えずにはいられません。

井蛙は以て海を語るべからず

神戸住吉整体院

井蛙は以て海を語るべからざるは、虚に拘(なず)ればなり。

 

黄河の神『河伯』が初めて海へ行き、その大きさに驚き、北海の神『若』に「今まで黄河が一番大きい思っていたのに、こんなに広いものがあるとは知らなかった」と言った。

 

すると『若』は、こう言ったのです。

 

「井戸の中の蛙には、海の事を話しても分からない。

夏の虫に冬の氷の事を話しても分からない。」

 

狭い見識に囚われて、他に広い世界がある事を知らず自分の世界こそが全てだと思い込んでいると、ものの真理や大自然の大いなる心・力をいつまで経っても感じられないものです

これに随えども後(しりえ)を見ず

『これ』とは『常(じょう)』のことであり、常に変わらない絶対の生命の力、人間誰しもに平等に注がれている大自然の力の事で、『道』とも言います。

 

この『道』というものには色も香りも無く、音も無く触れる事も出来ません。

 

前からやってきても気付かず、通り過ぎても後ろ姿すら見えません。

 

しかし、その力は確かに存在します。

 

見えなくても感じなくてもその生命力の尊さに気付く事が『道を治める』、『徳を修める』ということなのです。

 

自分以外のものに対する思いやりと愛の心は、目には見えませんが、とても大切な物なのです。

 

心静かに穏やかに過ごし、大きな心で受け入れてみましょう。

不善なる者も、我またこれを善とせん

整体姿勢屋

一般的な常識に照らしてみると、世の中には『良い人』と『悪い人』がいるかもしれません。

 

本来この言葉は『良い人も悪い人も合わせて良い人と信じる』という意味なのですが、果たしてそうなのでしょうか・・・

 

良いと言われる人が常に良い行ないをするとは限りませんし、悪いと言われる人が悪い行ないばかりするとは限りません。

 

また、ある人にとっては良い人であっても、別の人にとっては悪い人である事もあります。

 

つまり、是非善悪というものは、ほとんどにおいて絶対ではありません。

 

『良い』『悪い』は、時代、場所、立場、思想、環境などによって容易に入れ替わるものですし、それを感じる側の物事の捉え方、物事の見方に大きく左右されます。

 

完全武装で、無差別に、無抵抗の、何の罪も無い市民を殺傷する『テロリスト』であっても、祖国では『英雄』と呼ばれるのです。

 

そう考えると、こういう趣旨の言葉の持つ『限界』を感じずにはいられません。

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吾、我を喪えり

ロコモ整体

吾(われ)と我(われ)とは、全く違います。

吾とは生まれたままの自然的な真の自分の事。

 

我とは、『自分は! 自分が!』という我意識の事。

 

人は生まれて、育ち、学び、遊び、働くうちに自然と自分の都合や、価値観、正義感、是非善悪などの考えが形成されます。

 

問題は、それが『絶対性』を帯びてしまい、自分の考えが最も合理的で正しい事だとの思いや、違う考え方を受け入れられなくなる事です。

 

人にはそれぞれに固有の意見があり、それは絶対的なものではなく、相対的なものですので、ちっぽけな『我』にこだわらず、『我』を捨て生まれたままの真の自分に戻って、柔らかく物事を捉える癖を付けましょう。

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美の成るは、久しきに在り

猫背肩こり整体

良い事が上手く出来上がるには、長い時間がかかります。

逆に信頼、信用の喪失などの悪い結果はすぐに出てしまいます。

 

今の世の中は少しでも、誰よりも早く、一直線に進み、高すぎる目標を掲げ、失敗する事も許されず、それでもなかなかうまくいかず壁にぶつかり立ち止まってしまいがちです。

 

そんな時代だからこそ右へ左へ、曲がりくねって、遠回りをして、ゆっくりと、久しく時間をかけて物事に取り組む姿勢が重要になります。

 

こういう柔らかい物事の進め方には、自由に脚を踏み出すことが出来るだけではなく、時には後戻りさえ平気で出来てしまう余裕が生まれます。

 

成功するには長い時間がかかるものなのです。

 

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世を挙げて・・・

☆世を挙げて之を誉むるも、努めるを加えず☆

 

誉められる事は気分がいいものです。

世の中の人がこぞって自分の功績や業績を称えてくれれば、これほど愉快な事はありません。

 

ただ、いい気になって調子づいて、本来自分の力以上の事にまで手を伸ばして無理をし始めてしまっては元も子もありません。

 

自分の力を過大視してはいけないという事です。

 

☆世を挙げて之を非(そし)るも、阻むを加えず☆

 

逆に世の人にけなされたり、ぞんざいに扱われたとしても意気消沈することなく、冷静に自分のペースで生きていく、常に自然の道を自然と一緒に、流れて生きていけば良いという事なのです。

 

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目標

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人間は自らが目指しているような存在になる

 

2013年が始まって、もう1/3が過ぎてしまいましたが、

年の初めに『今年こそは!!』と心に決めた事は続いていますか?

 

目標を立てる時は、短期、中期、長期のいずれかをはっきりしておくことが大切です。

 

短期なら1ヶ月程度、中期なら半年から1年、長期なら3年~5年のスパンで、健康、仕事、恋愛、家族など自分にとって大切な事を盛り込んだ計画が望ましいのですが、少々高めに設定してみましょう。

 

種としての限界、例えば空を飛びたいなど空想的な物でなければ特に限界を設ける必要はありませんが、あまりに突飛すぎるのも絵に描いた餅のように現実味がありません。

 

ですので、ほんの少し、僅かばかり背伸びをすれば手が届くかも知れない、という程度の高さの目標が良いと思います。

 

あまりに高すぎる目標は、頑張りすぎを招いてしまい心と体が硬くなって疲れてしまいます。

 

のこり約2/3年ですが、まだまだ大丈夫です。

 

自分を信じて進めば、目標は必ず達成できることでしょう。

 

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われに三宝あり。持してこれを保つ

御影芦屋整体姿勢屋

いつもどんな時も持っていたい

3つの宝があるとすれば

 

『慈』

他人をあわれむやさしい心を持つ事

 

『倹』

自分の欲望を控えめにする事

 

『敢えて天下の先と為らず』

他人を差し置いて自分がトップにたとうとしない事

 

3番目の解釈は自分の内にある才や力を充実させ、成長した結果として先頭に立つ事は素晴らしい事ですが、他人を押しのけ、虐げ、蹴落とし、それらの犠牲の上に成り立つような事を善しとしないという事です。

 

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それ物芸芸(うんうん)たるもおのおのその根に復帰す

『芸芸(うんうん)』とは、雲が次々と湧き出る様子の事で、

『根』とは自分の中にある自然のエネルギー、生命の源の事を指しています。

 

日々の暮らしの中で、

 

「どうしたらいいのか分からない」

「思い通りにならない」

「これでいいのだろうか」

「人より劣っているのではないか」

「自分の選択は間違っているのではないか」

 

様々な不安や、それに伴うイライラした気持ちが雲のように次から次へと湧き上がってくる時があります。

 

そんな時はご自分の中にある命の源を心静かに見つめてみましょう。

 

人間の中にあるエネルギーとは呼吸です。

 

呼吸は自然とつながる大切な要素です。

 

呼吸に意識を向ける事は、気付かなかった本当の想いや、それほど重要ではない事に固執していた心の偏りを発見出来たり、肩の力を抜いて過ごすことにつながります。

 

今までの辛さ、苦しさが少しでも軽くなれば幸いです。

 

重は軽の根たり

強い者は弱い者の支えとなる。

 

これは自然のルールです。

 

強いものがどっしりと根を張る事で、幹や枝を支え、葉をつけ、花を咲かせ、実が成るのです。

 

ちょっと力がある、強い、成功した、そんな人がいい気になり土台として支える事を忘れ、弱い者を踏みつけたり虐げたりする事で自然のバランスが壊れてしまいます。

 

強ければ強いほど、賢ければ賢いほど、謙虚で優しくすべての物を守り支える気持ちを持ちたいものです。

 

虚を致すこと極まれば静を守ること篤(あつ)し

『これは良い』『あれは悪い』など自分の主義主張、価値観ばかりを優先し、強引に押し通そうとしたり、

 

地位、名誉、財産が当人の人間的価値を決めていると思い違いをして、そういう人に対しては媚びへつらい、そうでない人には横柄な態度で接したり、

 

また自分をそういう部類の人間になろうと、どうすれば出世できるか、金持ちになれるか、人から賞賛を得られるかなどに囚われ心が歪んでしまったりと、

 

あれもこれもと欲ばっているとロクなことはありません。

 

そんなつまらない事に執着せず、心を開放し、今の自分を肯定も否定もせずにありのままに受け入れれば、心を空っぽにする事が出来ます。

 

そうすると、不思議と心の重荷になっていたものや苦しみが消えて無くなってしまい、安らいだ静かな心で過ごすことが出来るのです。

 

その光を和(わ)し、その塵(ちり)に同じくす

本当に才能や英知を身に付けている人は、その力をギラギラと見せつける事などしないものです。

 

人の話に耳を傾け、人の長所を褒め、喜びを分かち合う。

 

自分だけは人とは違う、特別な存在だとばかりに異彩を放つ事に気を高ぶらせ、賞賛を得る事に必死になるような生き方は、自然の流れから考えると、むなしい限りです。

 

自分の主張だけを押し通そうとせず、周りの状況に流されながら、その中で、無理のない生き方を選んでみるのも良いのではないでしょうか。

 

時には謙遜という舟に揺られながら、肩の力を抜いて、気楽に流されてみましょう。

 

もの壮(さかん)なれば則(すなわ)ち、老ゆ

人は極端な積極性や、急激な行動により成長をする時、他人からの厚意や人情を踏みにじり、恨みや妬みをかってしまう事があります。

 

急いで成長する事自体が悪い事ではなく、成功や名声に執着するあまり人の道に反するようなことをしたり、自分だけの功績を誇り、驕り高ぶっていると、必ず衰退してしまいます。

 

着実に成長するためには、「早く早く」ではなく「ゆっくり落ち着いて」コツコツやっていくほうが良いのです。

 

成長するにはそれなりの自然の道理というものがあります。

 

少しでも早く花を咲かせて実をつけようとしても、自然はそんな作りには、なっていません。

 

種をまくと、まずする事といえば、根を生やします。

 

そしてそれは上へ上へと向かうのではなく、下へ下へと伸びていきます。

 

十分に根が張れてようやく芽を出し、太陽の光や雨や地中の水分、栄養分に力を借りながら茎や枝を作り、葉を出して、

 

そして花を咲かせ、実をつけます。

 

人も自然の一部であり、決して特別な存在ではありません。

 

自然の営みをお手本に、少しゆっくり進んでみませんか?

 

道の道とすべきは、常の道にあらず

人が人として歩んでいくべき理想的な生き方(道)は、

グローバルなどと声高に叫び、成長と拡大を目標に壊れる程に

身を尽くし、弱肉強食の力学で他人を蹴倒し、勝ち組として生き残りふんぞり返る生き方ではないと思っています。

 

地位や名誉や財産が、イコール良い生き方の象徴ではありません。

 

人が人として生まれ、生き続けられるのは、大いなる自然の一部として存在し、自然からたくさんの事を学び、守り守られ深く結びついているからなのです。

 

他人と争い、一歩でも先んじようと魂を削るよりも、自然の偉大な力とともに、ゆっくりと呼吸し、『笑顔』で満ち足りた1日を過ごせるような心をはぐくんでいきたいものです。

人に勝つ者は力あり、自らに勝つ者は強し

人に勝つ人は、相手よりも少しばかり力があって強いだけの事です。

 

自分自身の私利私欲に勝つ人こそ、人間として精神力の強い本当の意味での強者だと思います。

 

人間の欲には善悪に関わらず限界がありません。

 

あれが欲しい、これが欲しい。

 

その障害となる人には力を持って押し通し、欲を満たそうとします。

 

適切な欲は、自分を成長させたり、充実させたりするために必要ですが、このような欲も自分に過ぎたものであると、身を滅ぼしかねません。

 

そんな欲こそ大敵であり、コントロール出来なければ幸福感は得られません。

 

一見自分が欲を満たそうとしているようでも、実際はその逆で、欲に振り回され自分を見失ってしまい、とんでもない行動を起こしてしまいがちです。

 

大地にしっかりと足をつけ、気を腹に溜め、自分を制御して、常に冷静に判断し行動出来る様になれば、そんな人こそ『悟った人』と言えるのではないかと思います。

 

古(いにしえ)の道を執れ

昔ながらの生き方が健康に生きるための参考になるかもしれません。

 

『いにしえのみち』=『古の道』とはゆっくりと穏やかに落ち着いて

自然とともに悠々と生きる事です。

 

しかし現代はスピードを上げたり、時間を短縮することを是とし

1分1秒でも効率的な事に重きが置かれます。

 

他人より少しでも早く見たい、知りたい、行きたい、食べたい......

 

時折ニュースなどで、何かが発売されると何日も前から並び、

発売と同時に何故かハイタッチをしながらお店に入っていく映像を

見かけますが、他人よりわずかでも早く手にする事に何の意味が

あるのでしょう?

 

車を運転していても、たとえ1台でも他車より前に出たいと、

となりの車線に少しでもスペースが空くとすぐに車線変更をし、

せわしなく繰り返しながら運転している人を見かけます。

 

こんな方はたいてい気が上がってしまい、他車の動きばかりに

集中する事で、目が絶えず緊張状態になる為に吊り上り、

首と頭が前方に突き出て肩に不自然な力が入っています。

 

電車が駅に到着しドアが開いた瞬間、降りる人を押しのけて

突入を図る人。

 

 

心、穏やかに、安らかに、感謝の気持ちを抱きつつ生きるとは

他人より1歩先んじる事ではなく、1歩譲る事ではないでしょうか。

 

上善(じょうぜん)は水のごとし

理想的な生き方は例えてみると、水のように柔軟に生きることではないでしょうか?

 

水は全てのものに利潤を与える、偉大で壮大で強大なものでありながら丸い器に入ると丸くなり、四角い器に入ると四角くなる。

 

その時々に必要な様々な形に、柔軟に謙虚に変わる事が出来ます。

 

人は他人より少しでも上へ、一歩でも上へと高い地位や名声を求めてギスギス生きてしまいがちですが、水は高いところから低い所へ流れ徐々に支流を合わせながら、次第に大きくなり最後は広大な海となり人々にたくさんの利益と恩恵を与える存在なのです。

 

こういう生き方が出来れば、身体にも心にも優しくなれるのでは

ないでしょうか。

 

至人(しじん)は己なし

本当に充実した人は自己主張しないものです。

 

理想的な人間は大自然と心を1つにして生きる人であると考えると、

 

自然のように是非善悪の自己主張をする事もなく、

 

自分の欲望で動く事もなく、

 

地位や名声を求め争う事もなく、

 

非難されても劣等感を持つ事もなく、

 

褒められても無理な努力もせず、

 

自分の『分』をわきまえ、自然の心に従って悠然と自分らしく謙虚に生きましょうという事です。

 

もの、あれに非(あら)ざるは

もの、あれに非(あら)ざるはなく、

もの、これに非(あら)ざるはなし。

 

いかなるもの、ことでも見方によって同じ物がその時の都合によって、

『あれ』になったり、『これ』になったりします。

 

自分の手元にあるものは、『これ』ですが

遠くにいる人にとっては、『あれ』になる。

 

逆に

 

遠くにあるものは、『あれ』ですが、

遠くにいる人には、『これ』になる。

 

人は常に自分の考え(主観)を是として、物事を理解しようとします。

 

しかし、実際はそれぞれの見方や距離が違うだけで

本質は変わらないのではないでしょうか。

 

何が良くて、何が悪いのか 拙速に判断する前に、広い視野と穏やかな心で『見る』習慣をつけましょう。

 

爪だつ者は立たず

高く、少しでも高くと爪先で立っている人は、長く立っていられません。

すぐに疲れてしまいます。

 

困難な道を選ぶことが美徳であるとばかりに眉間にしわを寄せて、肩に力を入れて『頑張って』ばかりでは身体が持ちません。

 

時には容易な道をあえて選び、のんびりと進んでみたり、近道をしてみたりという事も必要です。

 

また、『跨(また)ぐ者は行かず』

 

これは、大股で歩く人は遠くまで歩き続ける事は出来ないという事で

人よりも少しでも早く目的地に着こうとして、脇目も振らず、汗をたらし、息を切らし、急いで大股で歩いていくのも人生。

 

自然の優しい風を受け、周りの風景を楽しみ、適度に休みながら、のんびり歩いていくのも人生。

 

力むことなく穏やかに進んでみるのも時には良いのではないでしょうか。